感情と意志についての現時点での理解

単なるメモ。

  • 人間は環境に実在するアフォーダンス(価値)を求めて行動する。
  • アフォーダンスには認知や理解も含む
  • 価値を求めて環境に働きかけ、環境を変え、望むものを手にする
  • 感情は行動に付随するもので本質的には動因ではない。
  • 感情は行動を規制し、同一の行動を繰り返したり、安定性を与えるために人間の行動を「縛る」。
  • 幸福感、気分の良さ、悪さ、興奮などの感情は手掛かりになるが、価値とは別のものであり、それを目的にすると誤る
  • 最も効果的なのは感情を行動と連動させること。行動をサポートさせること

 

演技メソッドとの関係

 

ロバート・フリッツのメソッド

  • ロバートのいう動的衝動(Dynamic Urge)はまさにアフォーダンスとイコールと考えてよいものと思われる

 

参考文献 

文化的―歴史的精神発達の理論

文化的―歴史的精神発達の理論

 
俳優修業 第1部

俳優修業 第1部

 
On the Technique of Acting

On the Technique of Acting

  • 作者:Chekhov, Michael
  • 発売日: 1993/11/01
  • メディア: ペーパーバック
 
Your Life as Art 自分の人生を創り出すレッスン
 

 

オデッセウスの鎖―適応プログラムとしての感情

オデッセウスの鎖―適応プログラムとしての感情

 

 

 

ヴィゴツキーの情動論とその意義

最近、仕事の合間にヴィゴツキーの本を読み直し+新しい本を買って読んでいる。 この記事では、彼の情動論についてまとめる。

理性と感情の対立についての古い議論

感情は主流の哲学者や倫理家には評判は良くない。 古代の哲学者や倫理家の多くは、放縦や、感情に任せて行動することの愚かさを説く。

そして、理性による感情の制御というのがお決まりの教訓だ。

「ストイック」という言葉の語源となったストア派の哲学に傾倒したローマ皇帝マルクス・アウレーリウスは自省録の中で、わが子を愛する感情を必死で制御しようと試みている。 一部の仏教理解では愛欲は苦しみのもとであり、断ち切るべきとされる。

人間にとって、感情は動物的な下位機能であり、理性によって制御されるべき、というのが古来の多くの倫理観に流れていた思想だ。

スピノザとクルト・レヴィン

自分が学生時代にスピノザにほれ込んだのは、彼が 「人は感情によって行動し、理性は勝てない」 と断言していたからだ。確かスピノザの『国家論』だったと思う。

国家論 (岩波文庫)

国家論 (岩波文庫)

感情が行動を決定する、というのは次の本にもでていた。

理性は感情を刺激するだけなのだ。

結局、人の行動は様々な感情の葛藤や相克の結果決まる。

こうした観点はレヴィンのトポロジー心理学にも通じるだろう。

『エチカ』ではスピノザは人の行動の動因を見事に整理して、一元的な理屈で 徳や不徳と呼ばれる特性を説明してみせた。感情は放縦の原因であるだけではなく、徳の源泉でもあるのだ。

ヴィゴツキーの情動論

ヴィゴツキーは当時の心理学における情動分析がその根底には感情を下等な本能的な機能とみなす哲学的な問題があるとする。

日本語訳の本はデカルトスピノザとの対話と書いているが、基本はデカルト的なものの批判であり、スピノザ的なものの擁護だ。

 ウィゴツキーの論点は以下の点と思われる。

  • 感情が大脳の機能であり、大きな恐怖や興奮のほか、微細な愛情や満足のような感情と本質的には異ならないこと。
  • 情動は人間のエネルギーの源泉であり、人間行動に不可欠なものということ
  • 注射針に対して腕を差し出すような理性的な行為や道徳的行為といった自己行動の制御も、脳内で構築された複雑な反応体系に基づくもので、発達した情動機能の産物であること

与えられた環境を変革していくような創造的な活動や困難に打ち勝つプロジェクトをやり通す力は感情を廃した「理性」のようなものからは生まれないのだ。

「共感の大切さ」を超えた情操教育

ヴィゴツキーは学校の場などで、感じることを軽視してはならないと説く。学習内容の楽しさを味わうために好奇心を刺激するように説く。 また、芸術教育についてもその意義を語っている。

企業の人材育成や、現代の学校教育の場でも、感情の大切さみたいなことが説かれることは多い。 一方で、個人的に危ぐするするのが、それが他者への思いやりや共感を過度に協調し、結局日本的な「みんな仲良く」とか「空気」に逆らえない人をつくってしまっているのではないか、ということだ。

ヴィゴツキーの情動に関する教育は、感情の機能をみとめ、それを克服して、自己の行動を制御することも含む。 共感のようなものも大事だが、「空気」のようなものに生み出される感情やその時々の誘惑に抗して、自分の意志や判断を貫くことができる人格を作ることが一種の脳の機能なのだと説く。

芸術教育についてのヴィゴツキーの意見

彼は芸術作品はあくまでフィクションであり、そこから教訓や道徳を引き出そうとすることに批判的だ。 芸術を芸術として創造的に鑑賞することでその意味があるのだという。

学校の教科書から文学が消えることについて、色んな意見があったけど、ヴィゴツキーの議論を根拠にした議論は聞いたことはなかったな。

久保建英にみるポーカーフェイスと激情の両立

サッカーの久保建英マニアの一人であるが、こんな動画がある。


「久保建英にオススメのクラブとレアル・マドリー復帰のための最短距離」|木村浩嗣(在スペイン・ジャーナリスト)の移籍先診断【2】

久保建英の動じないメンタルについて、絶賛している(比べられたジョアン・フェリックスはかわいそうだが。。。)

ただ、久保マニアなら知っているけど、久保建英はもともと激情家だ。 チームが大量得点している時、自分一人だけ点をとれなくて号泣した、とか、バルサが興味をもっていないことを知って泣き出したとかの逸話には事欠かない。 今シーズンでも、残留争いの終盤、敗戦なのか、決定機を外したことなのか、ピッチを去るとき、地団駄を踏んで悔しがる様子をみせている。

プレイが常にブレず、冷静に見えるのは、要するに自分の情動のエネルギーをプレイに集中させることができているからだろう。

EQというのは対人関係に関するものだけではない。個人の自分自身の行動の制御という意味でも大きな意味をもっているのだ。

芸術との関係?

久保は幼い時から読み聞かせを大量に受けて、本人も読書家みたい。 小説をよく読むとか。ヴィゴツキーによれば、芸術を味わうことで感情が浄化され、感情のエネルギーを秩序だった行動に向かわせることができる助けになる。 そういうのも彼の人格能力の高さに寄与しているのかもしれない。

システムの複雑さについてのメモ

これをみて、改めて、システムの複雑さについて考えてみた

Udemy System Thinking Made Simple

複雑さを生み出すもの

Rich Hickeyの下記のプレゼンで複雑とは複数の意味をもっちゃうものと定義していることから発想。

Simple Made Easy

役割が定義できない要素の存在が複雑さをもたらす。機能や特性が要素に還元できない。例えば以下のようなもの。

  • システムの要素が担う役割が状況や時間の経過によって変わる

  • 要素が複数の役割を兼ねる

複雑なシステム

  • 人間の運動。筋肉のある箇所を使ったり使わなかったりして同じ機能を果たすことができる。
  • サッカー。局面によってFWも守備をする。DFも攻撃する

間組織の複雑性

人間行動が絡むと殆どのシステムが複雑さが増す。 人間は個々人の判断で適応行動をするから

  • 一つの機能を果たすために様々なロールを担う。ロールが流動する
  • 様々な機能を求める。製品を出力するだけではなく、給与、地位、人間関係、自尊心を与える機能を担う

制御するために必要なこと=ゴールの共有、プレーモデル/ロールの調整、満足する給与/関係性/承認の提供

情報システムにおける複雑さ

  • コンポーネントの役割分担を進めるのが吉
  • 一つのコンポーネントが何役もやるのが複雑さを増す
  • 非機能要件もコンポーネントに還元できるのが吉
  • 性能などの一部の要件は機能を実現するコンポーネントが担うため、複雑になりやすい。並行性を高めることは性能要件を並列実行数に還元できるようになるため、複雑さを抑制することになる

複雑さの価値

刻一刻と変化する状況に対応するためには、複雑かつ、自己組織化システムの方が適応しやすい。シンプルなシステムは柔軟性に欠ける。 情報システムは人の手によってしか変更されないからシンプルさが価値をもつ

1on1に頼らないこと

1on1 Advent Calendar 2019 - Adventarの14日目です。ちと体調崩してアップ遅くなりました。

1on1の源流

部下との1on1ミーティングの重要性、必要性を強調したアンドリュー・グローブはコンピュータシステムの発達によって、1オン1ミーティングの頻度はずっと減るだろうと言っている。

一対一 の こうした ミーティング は 果たして 必要 なの だろ う か。 絶対 に 必要 なの だ。 それでは 10 人 の 部下 が いる 場合 でも、 5 人 の 部下 の 場合 と 同じ だけの 頻度 で、 こうした 会合 を 持つ 必要 が ある の だろ う か。 その 必要 は ない。なんでも かん でも ミーティング を 持つ 必要 が ある の だろ う か。 そんな 必要 は ない。 という のは、 今日 の 従業員 は 10 年前 に 同じ 立場 に い た 従業員 よりは、 コンピュータ・ネットワーク を通じて、 自分 たち の 企業 の 中 で 一体 何 が 起き て いる かを たいてい の 場合 ずっと よく 承知 し て いる からで ある。

アンドリュー・S・グローブ. HIGH OUTPUT MANAGEMENT (Kindle の位置No.447-452). 日経BP. Kindle 版.

1on1ミーティングは時間がかかる。ミーティングを有意義なものにしようとして準備なんかをしようとするとなおさらだ。アンドリュー・グローブが本を書いた時代よりはるかにシステムが発展しているはずの現代で1on1がマネジメント手法として注目されているのは、ちょっと注意が必要だと思っている。

1on1の外のマネジメント

ツール

多くの情報は例えばツールなどでタスク管理していれば状況は把握できるし、マネジメントからのメッセージも当然多人数向けのミーティングやwikiなんかの情報共有手段でアップデートされるはず。それらが有用な情報なら多くの人はそれを採取しようとする。もし、それらが受け取られていない場合は別の問題かもしれない。

MBWA(Management By Walking Around) ウロウロすることによるマネジメント

当然、対面でのコミュニケーションは大事だ。ただ、それがフォーマルなミーティングに限定する必要もない。日々ウロウロしながら声をかけながらチームや組織の状態を把握しておく、個人の仕事の状況やどのように困っているかを把握する、雑談する、困っているときに相談されやすい状況を創ることはリアルタイムで問題を把握したり対処したりすることに役立つ。

例えば、ミスが目立ったり、成果物をつくるのが遅いメンバーがいたりしたとき、ちょっと断ってどのように行動しているのかを観察する、などをするのもいいと思う。スキルが足りないメンバーはほとんどの場合、何が足りないのか理解できないので、1on1なんかの場で、自分で課題を説明させるってのは大抵正確ではないし、そこから効果的な解決策なんて生まれないのだ。加えていうと、フィードバックが最も学習効果をあげるのは、その行動を行ったとき、すかさず行うフィードバックだ。(ここらへんは、Scrum使っているときは難しいかも。)

こうした積極的なコミュニケーションは当然、1on1ミーティングで部下から話をきく必要がある情報量を下げる。普段言えないことや潜在的な課題、マネージャーと部下との認識齟齬、訓練などに時間を割くことができる。

MBWA(Management By Walking Around) については自分はこの本で知った。

心理的サポートと内省支援

1on1ミーティングは悩みを聞いたり、内省を促したり、といった機会を提供することもできる。また、お互いの本音をさらして打ち解ける、みたいな効用もあるのかもしれない。一方で、こうしたフォーマルな形式に依存させるのはやはりあまり得策ではなく、普段からオープンなコミュニケーションができる環境をつくる、ということが大切と思う。

内省にしても、プロフェッショナルの仕事は日々省察しながら実践を繰り返すものだ。日々振り返りながらやっていくもの。

マネジメントツールの一つとしての1on1

アンドリュー・グローブの本の中には、優れた知識をもつ部下からマネージャーである著者が学ぶ時間としている例がある。彼によれば、1on1の目的は「相互に教えたり、情報交換する」ことだ。教えるというのは、上司からの教育も、部下からの他者視点からのアドバイス、高スキルを持つ部下からの上司の教育も含むのである。これは1on1の目的が成果を上げるためのマネジメントの一つだと位置づけられている、ということだと思う。

1on1の頻度もタスクの習熟度によって変える。多くの会社で1on1を一律の頻度で実施するということになってはいないだろうか。(習熟度は、例えば二年目までは月一回のような抽象的、形式的なものでない。)

形骸化を避ける

1on1はあくまでマネジメントのツールの一つであり、効果的ではあるが、それはあくまで全体のマネジメントシステムの中で機能するものだ。一方で、何をやっているのか定義が困難な「マネジメント」という仕事の中で、1on1は「やっていること」が分かりやすく、「仕事をした気」になりやすいものであると思う。1on1をやる、という発想ではなく、マネジメントに1on1を活用する、という捉え方の方が形骸化を避けられると思われる。

 

創造的なチームと礼儀正しくすることについて

この記事は Engineering Manager vol.2 Advent Calendar 2019 の3日目の記事です。ちょっとまとまってないですが、何かの足しになれば。

礼儀正しくすること

個人間の社会的儀礼は、一般的に文脈を異にする人同士のコミュニケーションでは重要なものだ。儀礼を尊重することでお互いが相手にとって危険ではないことを伝えることができる。

相手のスキルの低さや成果物の品質の低さを指摘することは無礼なことと感じる人が多い。これはマウンティングと一緒で、「お前は弱く、無能で、自分の言うことを聞かなければならない」というメッセージを受け取ってしまっているからだろう。人は多分、本能的に自分を支配しようとする人、支配できる人には脅威を感じる。

マウンティングメッセージは送り手が意図的に込めることもあるし、防衛のため、無意識に込めることもある。 また、メッセージの送り手がマウンティングを意図していなくても、受けて側が勝手にそう受け取ることもある。だから、礼儀正しく、相手を批判しないことは安全なコミュニケーションになる。

また、礼儀正しさは、他人の想定外の行動や期待と大きく外れた行動や反応をしない、ってことでもある。自分は研修の仕事をしているけど、例えば、講師が丁寧に説明しているのに、話を聞かずに別のことをしていたり、演習中に泣き出してしまったりするのは「礼儀正しくない」。

礼儀正しくすることのリスク

礼儀正しさは、社会的期待に合致した行動をとること、もしくは、そうできる能力を示すことで「安全に、不安なく」コミュニケーションをとる方法であるといえると思う。ただ、それは多くの場合、本当に起きている生の出来事を多少歪ませることで達成していることが多い。初めて取り引きする取引先にも「お世話になっております」と必ずつけるメールのマナーなんかは、その典型。

こうした礼儀正しさは、切迫した、創造的な思考や行動を阻害する可能性がある。現実と乖離したコミュニケーションが増えると、複雑な場では人々は現実をコントロールする力を失う。上位マネージャは儀礼的なコミュニケーションからは全く現実が把握できなくなり、何が起こっているか分からなくなる。

マイケル・チェーホフという演技教師のメソッドを学んだとき、ファシリテーターだった方はワークショップの場で愛想笑いや、儀礼的なハグのようなものを徹底して排除していた。参加者たちは非常に集中して、今場に起きていることや自分自身に起きていることに自覚的になり、学び易い環境になったと思う。

チーム内コミュニケーションの心理面の不安などに対処するために、礼儀正しさを強調すると欺瞞が増える可能性があるのだ。もちろん、例えばサッカー選手が年上の選手のことを「~君」と呼ぶように、特殊な礼儀を導入することでそれに対処する方法もあるだろう。

起きている現実に対処すること

レビューなどを含むチーム間のコミュニケーションで問題が起きているのであれば、それを礼儀正しさを強調することで対処して現実を隠すのではなく、現実に起きている事象に試行錯誤しながら取り組んでいった方が益が多いと感じる。

例えば、レビューなどの場でチームで期待された水準に達していない成果物であることが判明したときに、レビューイが「傷ついた」場合、いくつもの対処しなければならない事象がある。レビュー以前にスキル不足やリソース不足が判明しなかったのはなぜか、判明しても対処できなかったのはなぜか、そのほか、レビューの結果を個人的に受け止める必要はない、ということやプロとして仕事の評価を受けることは当然である、という認識の不足。チームとしての結果にフォーカスできていない環境などなど。

高スキル者が強い言葉で相手を批判する場合なども、何が起きているか、どうしてそのような行動パターンをとるのか、を理解すれば大抵の場合対処は可能だし、対処方法が分からなかったとしても、現実の問題を高スキル者と共有すれば改善してもらえるものだ。単に言葉の選び方を知らなかったり、問題を認知できていなかったりするだけの場合も多い。

例えば先に挙げた、講義を聞かない受講者の場合、かなりの確率で話についていけず、理解できていないことが原因だ。自分としては、話を聞かなくてもいいから、相当初期の内容を復習するように指示することが多い。(わが身を反省しつつ。。。)ここで、分からなくても聞け、というのは学校の教師がよくやることだが、学習に何のメリットもない。

礼儀正しさを強調して、表面上の心理的安全性を達成しても、「見えないルール」や「欺瞞的なコミュニケーション」が増えればチームの能力に悪影響を与えるリスクがある。

儀礼はコミュニケーションを密にできない人々や複雑性に対処する必要のない場合には有効だ。店頭での商品の売買などは儀礼を適切に使えるシーンだ。ソフトウェア開発はその真逆の状況だと思う。

ちなみに、原因を理解しようとして分からない場合は、分からない、ということを認めてパッチワークをすればいい。原因は大抵複合的だから、対処法はやってみないと分からないことも多い。問題の定義をすることの方が何倍も重要だ。

ヴィゴツキーにおける科学概念と生活概念の発達の違いとその意義

先日、この本を読んだ

 

「発達の最近接領域」の理論―教授・学習過程における子どもの発達

「発達の最近接領域」の理論―教授・学習過程における子どもの発達

 

 

第6章の「生活的概念と科学的概念の発達」についてメモ。

 

ヴィゴツキーによれば、学校で教えられるような科学的概念の発達と生活概念の発達は、相互に関連しつつも別の経路をたどるという。

 

その中で、彼は、「であるから」のような言葉を歴史学習の問いかけでは正しく答えられるのに、現実の生活の例だと正答率が落ちるような例をあげている。

 

彼によれば、無自覚に習得した生活概念が強いところでは、自覚的な科学概念が弱く現れる傾向にある、という。

 

研修をやっていると、こういうのは至る所で見る。机上の空論と呼ばれるやつだ。学習の文脈の中では言葉上で理解しているのだけど、現実に当てはめることができない。新しく学んだことを利用するのではなく、古い慣習的なものの見方をつい、適用してします。

つまり、生活概念が邪魔しているのだ。ヴィゴツキーは、第二外国語を学ぶ時にもこれと同様なことが起こっているという。

さらに、科学的概念を生活の文脈の中で適用できるようになるには、その概念の内在的な成長、そして、教師などによる支援が必要になってくる。

 

ここまでの議論で自分が受けた示唆は以下の点だ。

 

一つは、学んだことが現実に適用できず、言葉だけのものであったとしても、それは科学概念の萌芽なのであって、無意味ではない。それどころか、実践的に学んだことを適用するために不可欠である、ということ。

 

2つ目は、生活概念が邪魔をする、ということを教師も理解しつつ、辛抱強く新しく学んだ科学概念がその生徒の内面で発達してくることを待ちつつ支援する、ということが重要だということ。

 

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追記:ヴィゴツキー教育心理学講義』では、現実的に表象できるようにしなくては、砂上の楼閣だと言っている。上で書いた「言葉だけの理解」というのはよろしくないということになるだろう。概念として、未熟なものであっても、現実に根差した表象は伴わないといけない、ということだと理解している。

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効果的な研修について

研修の有効性

学校でのお勉強が役に立たないのと同じように、脱文脈化された死んだ知識はどんなに頑張って暗記しようとも役には立たない。

多分、最もやりやすくて効果的な研修は、文脈を同じくする社内での実践知を形式知化して、知識付与→実践とフィードバック→振り返りによる改善  のサイクルを回していくことだと思う。

下記の本では、やって見せる → 種明かし の効果も述べられている。

リーダーが育つ変革プロジェクトの教科書

リーダーが育つ変革プロジェクトの教科書

大事なことは文脈を失わないこと。

効果的な研修とは何か。

効果的な研修にはいくつかのパターンがあると思う。

  • 複雑なスキルや知識だが、On-the-JOB での実践的なフィードバックと組み合わされているもの(一般的なソフトスキル、コミュニケーション/問題解決などがフィットする。)
  • 煩雑なスキルや知識だが、体系的に整理され、かつ、受講者に前提知識やスキルが確保されているもの(ソフトウェアのフレームワークの知識とその利用などがフィットする。)
  • 比較的単純な技術の反復トレーニング(単純なコーディングスキルやアルゴリズム構築などがフィットする)

上記が比較的やりやすいものだが、もう一つのカテゴリが上記の合わせ技。 「複雑なスキルの土台にある機能しているシステムを、理解しやすい教授用モデルとして提示し、それをトレーニングする」

というやつだ。こういうのは、複雑系のスキルのトレーニングにも有効。

このモデルは、実践の中でスキルを拡張し、現状に適応し、成長していくための種になる。

理解しやすいモデルにする、ときの注意点は、簡単にしようとして実践で活用できないモデルにしてしまうこと。これは職業講師や著述家などがよくやる。アンケートや評判がよくなるから。

この「理解しやすい教授用モデル」というのは、熟達者すら自覚しきれていないイノベーティブなアイデア。とうぜん、モデルに完全な最終的な解はなく、継続した洗練が必要である。古来優れた教育者には知られてきたものだけど、ユーリア・エンゲストロームが分かりやすく定式化している。

mattun.hatenablog.com

実例