ヴィゴツキーにおける科学概念と生活概念の発達の違いとその意義
先日、この本を読んだ
「発達の最近接領域」の理論―教授・学習過程における子どもの発達
- 作者: ヴィゴツキー,土井捷三,神谷栄司
- 出版社/メーカー: 三学出版
- 発売日: 2003/08
- メディア: 単行本
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第6章の「生活的概念と科学的概念の発達」についてメモ。
ヴィゴツキーによれば、学校で教えられるような科学的概念の発達と生活概念の発達は、相互に関連しつつも別の経路をたどるという。
その中で、彼は、「であるから」のような言葉を歴史学習の問いかけでは正しく答えられるのに、現実の生活の例だと正答率が落ちるような例をあげている。
彼によれば、無自覚に習得した生活概念が強いところでは、自覚的な科学概念が弱く現れる傾向にある、という。
研修をやっていると、こういうのは至る所で見る。机上の空論と呼ばれるやつだ。学習の文脈の中では言葉上で理解しているのだけど、現実に当てはめることができない。新しく学んだことを利用するのではなく、古い慣習的なものの見方をつい、適用してします。
つまり、生活概念が邪魔しているのだ。ヴィゴツキーは、第二外国語を学ぶ時にもこれと同様なことが起こっているという。
さらに、科学的概念を生活の文脈の中で適用できるようになるには、その概念の内在的な成長、そして、教師などによる支援が必要になってくる。
ここまでの議論で自分が受けた示唆は以下の点だ。
一つは、学んだことが現実に適用できず、言葉だけのものであったとしても、それは科学概念の萌芽なのであって、無意味ではない。それどころか、実践的に学んだことを適用するために不可欠である、ということ。
2つ目は、生活概念が邪魔をする、ということを教師も理解しつつ、辛抱強く新しく学んだ科学概念がその生徒の内面で発達してくることを待ちつつ支援する、ということが重要だということ。
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追記:ヴィゴツキー 『教育心理学講義』では、現実的に表象できるようにしなくては、砂上の楼閣だと言っている。上で書いた「言葉だけの理解」というのはよろしくないということになるだろう。概念として、未熟なものであっても、現実に根差した表象は伴わないといけない、ということだと理解している。
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